麻雀の成立と点棒


これまでに概説したように麻雀の前身とみなされるゲームは、当初紙牌(カード)であった。これら紙牌ゲームと骨牌ゲームがいつの時点で融合し、竹骨製麻雀牌が製造されるようになったのか、浅見了氏はそのきっかけが19世紀半ばの太平天国の乱(1851〜1864)にあったと推定している。しかし骨牌化により誕生した麻雀も、当然ながら当初から現在の形であったわけではない。枚数、牌種など過渡期と目されるタイプのものが報告されている。
浅見了氏の紹介によれば、1927年榛原茂樹氏が北京で入手した麻雀牌には東・南・西・北の風牌は無く、代わりに江・村・斜・影の四種各四枚、中・発の代わりに赤字で晩、青字で涼が各四枚、白は存在しておらず、代わりに僧・棋・待・月が各1枚で、合計は現在と同じ136枚であったという。このセットには原所有者が1864年に福建省で入手したと書かれており、製造はそれ以前となる。この資料などにより浅見了氏は、麻雀の誕生を19世紀後半、1860年前後と推定している。

清麻雀
戦乱の中で誕生したと思われる麻雀において、花牌は風牌の原型である天王・東王・南王以外に多種多様な牌が生み出された。最大時には三聯(24枚)の花牌を追加して160枚に達したと言われる。あまりに花牌が多くなりゲーム性が失われたために花牌が整理されたことは前章で述べた。この花牌を一聯(八枚)にまとめて144枚のセットとしたのは陳魚門という人物とされている。近年の考証によれば、陳魚門は実在の人物であり、彼が現行144枚セットの成立に関与した可能性は大いにある。しかし花牌の廓清化は人為的というより自然淘汰的な力が大きく働いていた可能性が高いと考えられる。
こんにち、この144枚による麻雀は清麻雀、それ以前の花牌の多い麻雀は花麻雀と呼ばれているが、これに関して浅見了氏は「花麻雀とは、麻雀セットに花牌が存在するか否かで区別されるのではない。136枚+一聯(二座)八枚の144枚は1スート36枚×四箱にぴたりと収まる。そのような観点から考えると、麻雀成立時点では大量に存在していた花牌が人為的に廓清されて一聯八枚プラスの144枚セットに縮小されたのではなく、まず花牌が二聯、三聯存在した152枚、160枚のプレ麻雀ともいえる中国カードが骨牌化に至る過程で淘汰されつつ一聯八枚プラスの144枚セットとして成立してきた。この最終過程で陳魚門の関与があったかどうかは定かでない。その後、陳魚門により花牌を使用しない136枚ルールが考案されたとき、両者を区別するために清麻雀(現在の中国では素麻将と称する)・花麻雀という表現が用いられるようになったのではないか」と推定している。

牌種
風牌については風位牌であり、由来は明らかであるが、三元牌については、「紅い唇、緑なす黒髪、白く玉のような肌、すなわち美しい女性をあらわす」とか「道教にもとずく色である」とか諸説あり由来は不明である。三元の文字自体についても「発は矢を発する。その矢が的(白)に中(あたる)の意」などの説がある。
万子・筒子・索子については、一般には「筒子は丸い貨幣、索子はそれを貫いて通した紐、万子はその金額を表している」と言われている。しかし浅見了氏は定説に対して以下のように疑義を呈している。
天九 麻雀は馬弔、游湖、江西紙牌等の中国カードに、天九(テンカオ)=牌九(パイガオ)、控花(ワホワ)などの骨牌ゲームが取捨融合して成立したものである。その骨牌系ゲームである天九、控花などの図柄は賽子の目の組み合わせであるが、これは写真(天九牌)に見られるように現行の麻雀の筒子そのものである。逆に紙牌である東莞牌(麻雀の元になったゲーム参照)において貨幣をあらわす文銭の図柄配置は麻雀の筒子とは似ても似つかない。
もちろん、図柄そのものは時代によって変化するが、仮に中世の中国カードのデザインが貨幣様であっても、麻雀の筒子の文様とは直接的な関連性が見られない。すなわち筒子のデザインは、紙牌・骨牌の融合過程で貨幣模様が駆逐され、天九牌の賽子目デザインが採用され、こんにちに至ったと思われる。

索子については、骨牌麻雀の前身である紙牌麻雀(中国カード)の紋様から、貨幣を通した紐のデフォルメであることにまず間違いはない。もちろん麻雀古牌には索状ではなく笹の葉をデザイン化したような牌も存在するが、あくまでそれはデザイン上のバリエーションと考えられる。

万子について浅見了氏は、中国カードに存在した萬貫牌の字句表示部分(絵図を除いた部分)が、そのまま移行したものであろうが、福建牌では万子の代わりに品子と表記されている。諸資料からは中国カードに「萬貫」というスートが存在したものの、麻雀のスートデザインとしては、福建牌における品子というスートの成立の方が古いと推測している。
すなわち3つのスート全体でいえば、すべての麻雀セットが「全体で金銭を一体的に表している図柄」ではないと考えられる。

麻雀という名称
ゲームの名称である麻雀(マーチャオ=マージャン)という呼称について、その変化は以下のようであったと考えられている。

模掉→馬掉→馬掉脚→馬脚(馬角)→馬弔(四門)→馬将(馬雀)→麻将→麻雀

もちろん全体としてこのような流れとしても地方・グループ毎に呼称はさまざまに使われていたはずである。また葉子戯・紙牌・骨牌という呼称は時代を越えて常に用いられてきた。
なお、日本では麻雀であるが、現代中国では麻将の文字が適用されている。

点棒の成立
これまで述べてきたように、麻雀は19世紀後半になって成立し遊ばれてきたわけであるが、当然博打である。その精算方法は和了があった都度の現金精算である。得失点を記録するための点棒もチップも存在しなかった(現代でも中国では現金精算である)。点棒の成立した過程について浅見了氏は以下のように推論している。
20世紀に入って麻雀は上海のイギリス租界などで大流行した。欧米人も当初は中国人同様に現金精算をしていたが、現金の場合、両替の必要も生じて面倒であった。そのためゲーム後の精算が求められ、得失点の動きを記録しておく用具が必要となった。そこで選ばれたのが抽籤(チューチェン)というゲームの用具と思われる。
抽籤は少なくとも1930年代には中国で盛んに遊ばれていたギャンブルゲームの一種で、占いに使う筮竹(ぜいちく)状の竹の棒に天九牌の目を刻印したもの32本を用いる。この細長い棒は四種類ほどあり、ほぼ金銭の種類と合致していたようである。そこでこれを金銭の代わりに授受し、最後に精算を行うようになったと考えられる。
この金銭代用の籤馬(チョーマー)も当初は天九牌の目そのものの紋様で用いられていたが、やがてイギリス人は多少デザインの異なった籤馬を用いるようになった。これを English Marking と呼ぶ。
抽籤はおみくじのように棒を竹筒から引き出すゲームなので、引き出された瞬間に種別が判別できるよう、その紋様は棒の両端に刻印されていた。これは English Marking となった時点でも同様であった。しかし麻雀用の籤馬となれば刻印が両端にある必要はない。そこで刻印が中央にあるタイプもやがて製造されるようになった。写真は浅見了氏所有の両タイプの籤馬である。
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 刻印両端タイプの古い籤馬(チョーマー)
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 刻印中央タイプの古い籤馬(チョーマー)
この English Marking もしだいにポーカーチップに取って代わられたそうであるが、日本に伝播する過程では麻雀に無くてはならぬ付属品として伝来した。

もともとゲーム終了時の精算は相手を信用してのことである。途中で逃げられたら元も子もないわけで、都度に現金精算すればこの憂いはない。また何らかのアクシデントによる中断にも対処できる。これに対し、租界では仲間同士、少なくとも信用できない相手は居なかったはずで、両替等の面倒さの故に点棒が成立したと思われる。日本もまた民族的に村社会であり、基本的に相手を信用しているので点棒を無条件で受け入れたものであろう。また、ギャンブルでなければ点棒は当然必要となる。こうして、こんにちでは点棒を使用するのは日本麻雀のみになった。すなわち点棒は日本麻雀の特徴の一つである。


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