日本麻雀の成立


1、日本麻雀の黎明期
19世紀なかば、馬弔を代表とするカードゲームと天九牌系の骨牌ゲームが融合して麻雀が誕生したことはこれまでに述べた。この時代、日本は明治維新を介しておおいに海外と流通していった時代である。麻雀も当然、それら海外に雄飛した人々の目にとまり、中にはプレイした人もあったと思われるが、残念ながらその頃の資料は現在見いだされていない。
この項を書くにあたって、まず日本への麻雀の伝来について紹介してみよう。
麻雀見聞記
日本に麻雀を紹介した最初の記として有名なのが夏目漱石の「満韓ところどころ」である。これは夏目漱石が支那(現在の中国)を歴訪した際の紀行文である。明治42年(1909)11月19日付け東京朝日新聞に掲載された第19節の概略を紹介してみる。
「たくさん並んでいる部屋の一つでは四人で博奕を打っていた。博奕の道具は頗る雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角くらいに当たる札を五六十枚程四人で分けて、それを色々に並べ替えて勝負を決していた。其の札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合わせに接いだもので、其の象牙の方には色々の模様が彫刻してあった。此の模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝ちになる様にも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴る許りで、何処が博奕なんだか、実は一向解らなかった。」
これが麻雀の描写かどうかは不明であるが、時代背景からもほぼ麻雀であろう。

日本初の麻雀牌
夏目漱石が日本に麻雀を紹介した明治42年と同年に日本上陸第1号の麻雀牌をもたらしたのは日本語と英語の教師として中国四川省に赴任していた名川彦作という人物である。名川は麻雀牌を携えて帰国後、樺太の大泊中学で同僚や生徒らに熱心に麻雀を教えた。しかし、まったく個人レベルであり地域も樺太ということもあって、麻雀流行の素地を作るには至らなかった。
この名川が持ち帰った本邦初といわれる麻雀牌は現在千葉県にある麻雀博物館の日本コーナーに展示されている。

諸先人の活動
大正期になると大陸で麻雀を覚えた人々が日本で麻雀を普及するようになる。麻生雀仙という人(本名、賀来敏夫。日本麻雀草創期の先人)が東京赤坂で大正7年(1918)に少数愛好家のサロン的な麻雀クラブを開設している。また大正6年には日本語による初の麻雀の文献(肖閑生著「麻雀詳解」)が刊行された。 同時に井上紅梅(本名、井上進。貿易商)が大正7年から大正10年にわたり、雑誌「支那風俗」を刊行。文中で麻雀のルールを詳しく紹介した。
このような時代、まず麻雀に飛びついたのは文人、そして上流階級の人々であった。
大正12年新宿区牛込神楽坂で営業したカフェー「プランタン」は店主(松山省三)が画家であり、妻の松井潤子も女優ということで、多くの画家、俳優、文人、墨客が出入りしていた。この店へ洋行帰りの市川猿之助と平岡権八郎が上海で買った麻雀牌を持ち込んだ。後に牌聖と謳われる林茂光(リンモコウ、本名は鈴木郭郎、雑貨貿易商)らが集い、麻雀を大いに楽しんだ。これを世にプランタン時代と称する。このとき指導を受けたメンバーが後に日本麻雀界の指導者となった。

プランタン時代の初期は詳細な麻雀ルールを誰も知らなかった。日本郵船がキャビンに備え付けた十頁たらずの英文のパンフレットを唯一の手がかりとして遊んでいたので、下家の捨て牌を上家がチーするとか、ポンよりチーが優先するとか、二人当たりの優先順位もデタラメであった。これを正して正規の麻雀ルールを教えたのが大陸で麻雀を覚え本場仕込みの腕を持っていた林茂光である。林がプランタンに出入りするようになると、はるばる鎌倉から菊池寛、久米正雄、田中純などの有名作家がしばしば訪れるようになった。
林茂光が「親は最後に、こういうぐあいに、チョン、チョンと、一対とばして取ってくるのです」と説明して以来、チョンチョンは日本語として定着した。本来は跳板(チャオパン)というのが中国での名称である。
<天野大三著「日本麻雀史」より要約>

また、大正13年、東京四谷に東京麻雀会を作り、無報酬で華族の家に出向いて家庭麻雀の出張教授をおこなうなどの普及活動をした空閑緑(クガミドリ、本名は空閑知鵞治。日本麻雀連盟の創設者)らの努力もあった。
書籍関係では、大正13年6月に北野利助が「麻雀の遊び方」(快声堂)を著し、同年7月には麻雀牌輸入の宣伝用に林茂光が「支那骨牌・麻雀」を著した。これはその後の麻雀ブームにものって十万部を越すベストセラーとなったという。

この時代に麻雀に熱心な外国人も麻雀を普及している。シー・デホーヤ女子が雑誌「婦人画報」に「麻雀牌の遊び方」を載せ、同時に女史の自宅で日本の娘たちに麻雀をコーチする姿の写真が大正13年1月号のグラビアを飾っている。
また同年に「サンデー毎日」が募集した社交的室内遊戯に麻雀が当選し、同誌上にルールが紹介されている。
さらに大正15年1月には空閑緑が報知新聞の趣味欄に「麻雀の話」を数回連載している。
このような活動を通して徐々に麻雀が一般に知られるようになった。
デホーヤ女史
麻雀をコーチするシー・デホーヤ女史
麻雀が雑誌のグラビアに載った第1号


<麻雀博物館会報第1号(01/01/2001)より転載>



2、麻雀の流行
幾多の先人たちの努力にもよって、関東大震災(大正12年)以降、麻雀はしだいに一般に知られるようになった。しかしブームとして大流行したのは昭和に入ってからである。
第一次の麻雀ブーム
大正13年(1925)の夏、空閑緑は四谷で東京麻雀会を旗揚げした。昭和2年(1927)10月には「麻雀春秋」を創刊、昭和3年には銀座に移転して東京麻雀倶楽部を設立、昭和4年にはこれを日本麻雀聯盟と改称し、初代総裁には文芸春秋社社長でもあった菊池寛が選任されたが、実体は私財を投げ打って運営に尽力した空閑中央委員長のワンマン体勢であったという。

日本初の麻雀荘は大正13年に平山三郎が東京、芝に開いた「南々倶楽部」といわれるが、昭和4年(1929)には1521軒、翌5年には1712軒を数えるほどになった。このような時流の中、国民新聞社の後援により日本麻雀聯盟主催第一回全国麻雀選手権大会が昭和6年3月21日に開催された。参加者が500名を上回って一日だけでは処理できず、十日後の31日の両日に分けておこなわざるをえなかったほどの盛況であったという。

こうして麻雀は第一次のブームを迎え、多くの麻雀団体が結成されたがルールは各団体まちまちであった。そこで昭和3年3月25日、東京麻雀会で日本初のルール協定委員会が開かれ、これを受けて翌昭和4年4月11日、丸の内の大阪ピル内のグリル「レインボウ」で各団体の代表が集合しルール統一会議が開かれた。そして符底20符、門前清加符10符、満貫500点など、今日のルール基本が決定された。これはレインボウ会議と称され、日本麻雀史の一頁を飾るエポックメーキングな会議であった。
レインボウ会議
レインボウ会議の模様

浅見了著「麻雀概史(下)」より



その後、日本麻雀聯盟は昭和7年(1932)に実業麻雀聯盟(代表・杉浦末郎)、本郷麻雀会(代表・高橋緑鳳)、昭和麻雀会(代表・前田清)、日本雀院(代表・榛原茂樹)など、各地の麻雀団体と合併し、大日本麻雀聯盟となった。総裁は久米正雄、空閑は中央委員長および機関誌「麻雀春秋」の編集長として在籍したがやがて運営上の問題から脱退し、新たに西銀座で日本麻雀聯盟を設立するなどの経緯があった。空閑はその後麻雀の普及に伴い、トップ賞のあり方などで警察より賭博性が指摘されると、中心となって東京麻雀粛正同盟を設立、麻雀の健全な発展に寄与した。

しかし麻雀はもともと博打として遊ばれたゲームであり、日本に輸入されたあとも人々は金品を賭け、雀荘もトップ賞として高額な景品を提供した。このため昭和8年頃から警察による取り締まりが厳しくなり、さらに戦争の広がりとともに軍部の圧力もあって麻雀荘は漸減していった。そして昭和15年頃にはあれほど隆盛を誇った麻雀荘も皆無となった。

3、戦後の麻雀界と第二次ブーム
戦争中、衰退していた麻雀は、リーチ、ドラという新ルールとともに急速に復活した。このリーチのルールは関東軍の復員兵からもたらされたと言われる。
新ルール、リーチ・ドラ
昭和21年(1946)2月には東京、浅草で麻雀荘の営業が許可され、以後雀荘の開業が相次いだ。昭和22年には日本麻雀連盟も再建されたが、戦前からのアルシーアルルールは主流とはなり得ず、リーチ、ドラを取り入れた新ルールが大いに普及した。このような状況の中で昭和27年、報知新聞に天野大三が日本初のリーチルール「報知ルール」を発表した。天野は昭和30年代にリーチ麻雀団体「日本牌棋院」を設立し、以後その普及に多大な貢献をした。昭和40年代になると村石利夫により日本麻雀道連盟が設立され、リーチ・ドラは日本麻雀の特徴の一つとなった。

第二次麻雀ブーム
昭和44年(1969)から週刊大衆に阿佐田哲也の『麻雀放浪記』が連載され大好評を博した。同じ頃、日本テレビの人気番組、大橋巨泉司会の『11PM』が麻雀を放映してファンを沸かせた。ついで昭和47年(1972)には麻雀専門誌の月刊「近代麻雀」が竹書房から創刊された。
この頃から昭和60年(1985)頃までが第二次の麻雀全盛時代である。このブームは戦前のような爆発的なものではなかったが、その後も麻雀は愛好され、現在では漫画やゲーム、インターネットなど新しいメディアの力もあり、麻雀は大衆ゲームとして定着し広く親しまれている。

4、ルールの変遷
当初、中国式ルールで遊ばれていた麻雀は大正から昭和にかけて普及するにつれ、次第に日本式ルールへと変化していった。門前清加符の制定もその一つであるが、大きなルール変革はサイド精算の消滅と放銃一人払いである。
符底、アルシーアル
符底とは得点計算の基礎となる基本符である。中国古典麻雀では一翻しばりというルールは無いので平和(ピンフ)で上がった場合、基礎符が無いと得点がゼロになる。そこで上がり賃としての符底が存在した。
その頃の中国では10、20、40、60符底のルールがあったが、全体的に20符底が主流であり、我が国に伝わって主流となったのも20符であった。この基礎点を中国本来の術語で現すと「20符底(アルシーフーテー)」で、アルシーアル麻雀と呼ばれるようになった所以である。

サイド精算の消滅
サイド精算とは和了があった時、上がらなかった者同士が、互いの手の状況をもとに点数精算をするものである。
麻雀が伝来した当初はサイド精算も含めてルールはすべて中国式であったが、サイドは計算が面倒なこともあってしだいに変化し、昭和6年頃には消滅した。

放銃者一人払い
中国式ルールでは摸和、栄和にかかわらず三人払いであったが、昭和5年頃になると一般麻雀において栄和は放銃者払いというルールが急速に普及していった。この栄和放銃者一人払いというルールがなぜ日本で登場したのか定説はない。一説には花札の八八から、一説には他者の行為が自らの失点に繋がるのが日本人の国民性に合わなかったとも言われるが、実際のところは不明である。
この放銃者払いルールはサイド精算の消滅とともに麻雀の技法に極めて大きな変革をもたらした。すなわち放銃による失点はすべて自己責任となり、それが危険牌/手筋の検討を必要として、プレーヤーの独立性が高いゲームへと変貌したのである。

立直(リーチ)の誕生
中国麻雀には第一打牌による聴牌宣言(日本のダブルリーチ)が存在したが、ゲーム途中の聴牌宣言は存在しない。日本でなぜリーチのルールが誕生したのか定かではないが、昭和5〜6年のことと考えられている。
このリーチのルールは当初は主流ではなかったが戦後になって爆発的に広まった。このリーチルールを体系化し普及に尽力したのは先に述べたように天野大三であり、リーチ宣言牌を横向きに捨てるというのも氏の考案によるといわれている。

振り聴ルール
日本麻雀が中国麻雀と大きく異なるもう一つの点は振り聴ルールである。中国式では互いの捨て牌はその場で確認され、チー・ポン・ロンがなければ卓の中に放置され、浮屍牌となる。浮屍牌は誰にも帰属しないので、自分が捨てた牌でも出れば栄和できることになる。
日本でも当初は中国式であったが、やがて栄和放銃者払いルールが普及すると、いわゆる振り聴上がりは排斥されるようになった。すなわち以前に本人が捨てた牌で栄和されると放銃者は釈然としない。そこで放銃一人払いに少し遅れて振り聴ではあがれないというルールが登場した。こうなると、それまでのように各人が卓の上にばらばらに牌を捨てるわけにはいかず、各自の手牌の前にきちんと捨て牌するようになった。

以上のように、放縦一人払い、リーチ=門前清重視、振り聴上がりの禁止=捨て牌の整理の3点は日本麻雀が競技性を有するに至る大きな変革であった。

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